Jhon Suhr 年代記:完全なるコントロールへの執念The Chronicle of John Suhr: From "The Chef" to "The Master"

序章:ニュージャージーの熱狂と「48丁目の悲劇」


(1958年頃 ~ 1980年 / 0歳 ~ 22歳)
ジョン・サーの物語は、1950年代後半、ニュージャージー州で幕を開けた。ロックンロールが世界を変えようとしていた時代、彼は音楽と共に育った。


1970年代後半(10代後半):プレイヤーとしての葛藤


若き日のジョンは、ギター製作家ではなく、一人のロック・ギタリストとしてキャリアをスタートさせた。ニュージャージーのバーやクラブで演奏する日々。しかし、彼の心には常にフラストレーションがあった。
「自分の演奏が下手なのは、ギターのせいではないか?」
当時の市販のギターは、フレットの処理が甘く、チューニングは不安定だった。彼は自分の機材を改造することに熱中し、完璧なトーンと演奏性を求め続けた。


1978年頃(20歳):巨匠ベネデットの警告


ジョンは、ある一本のストラトキャスターのネックに不満を持っていた。そこで彼は、当時ニュージャージーに工房を構えていたアーチトップ・ギターの巨匠、ボブ・ベネデット(Robert Benedetto)の門を叩く。
ジョンはベネデットに新しいネックの製作を依頼し、その作業を見学させてほしいと頼み込んだ。さらに「弟子にしてほしい」と懇願する。
ベネデットの答えは冷徹だった。

「やめておけ。ルシアーなんて割に合う仕事じゃない。人生を棒に振るぞ」

しかし、ベネデットは熱意に負け、ジョンに作業を見せることを許した。さらに、パレット(輸送用の廃材)から見事なジャズギターを作り上げ、「重要なのは木材の名前ではなく、構造である」という哲学を若きジョンの脳裏に焼き付けた。


1979年(21歳):48丁目の悲劇と「誓い」


ジョンには、ベネデットの指導の下で製作した愛着のあるギターがあった。彼はこのギターを完璧なものにするため、ニューヨーク・マンハッタンの楽器街、48丁目にあった「アレックス・ミュージック(Alex Music)」へ持ち込み、インレイとフレットの仕上げを依頼した。
しかし、戻ってきたギターは見るも無残な姿だった。インレイは汚く埋め込まれ、フレットワークは雑そのもの。愛器を「ひどく台無し(Terribly Ruined)」にされたジョンは、怒りのあまりそのギターを床に叩きつけて破壊してしまった。
失意の底にいた彼に、フロリダへ移住していた師匠ベネデットから小包が届く。中にはヘッドの折れたギブソン・レスポール・ジュニアが入っていた。
「これを自分で直してみろ」
ジョンはこのジュニアを見事に修復し、再びステージに立った。この時、彼の中に生涯を貫く鋼鉄の誓いが生まれた。

「二度と自分の楽器を他人に触らせない。修理するのは、私だけだ」
(No one will ever repair my instruments but me.)

第2章:料理人のプライドと運命のサンドイッチ


(1980年 ~ 1982年 / 22歳 ~ 24歳)
ギターへの情熱を持ちながらも、ジョンは生活のために別の道を歩んでいた。それは、ニューヨークの高級レストランでのコック(料理人)としてのキャリアだった。


1980年~1981年:完璧主義のシェフ


ジョンは、ニュージャージーからニューヨークへ通い、マンハッタンのレストランで働いていた。彼はここでも異常なまでの完璧主義を発揮していた。
彼はキッチンの責任ある立場(あるいはそれに準ずるポジション)にあり、料理のクオリティに一切の妥協を許さなかった。

「料理もギター作りと同じだ。少しのスパイス、少しのさじ加減、全てが重要なんだ」

1981年頃:ルディーズへの最初の接触と「拒絶」


この頃、ジョンは48丁目の名店「Rudy's Music Stop(ルディーズ・ミュージック・ストップ)」のオーナー、ルディ・ペンサ(Rudy Pensa)に接触している。自分の腕を試したい、リペアマンとして働きたいという思いがあった。
しかし、当時のルディーズはまだ修理部門を本格的に展開しておらず、あるいは人員が足りていたため、ジョンの申し出は断られた(あるいは保留にされた)とされる。
「今は人がいっぱいだ(No vacancy)」
夢の入り口は閉ざされていた。

1982年:運命のローストビーフ・サンドイッチ


転機は突然、そして奇妙な形で訪れた。
ある日、ジョンのレストランで、彼の下で働くスタッフ(スーシェフ)が、オーナー(ボス)のためのローストビーフ・サンドイッチを作った。しかし、その肉の厚さは不均一で、ジョンの基準(正確に1/4インチの厚さ)を満たしていなかった。
完璧主義者のジョンは激怒し、そのスタッフを解雇(クビ)にした。
運命の皮肉と言うべきか、その解雇されたスタッフが職を求めて辿り着いた先が、なんとRudy's Music Stopだったのだ。
ルディ・ペンサは、ちょうど店でギターの修理ができる人間を探し始めていた。その元スタッフは言った。
「俺はできないけど、俺をクビにした凄い奴がいる。彼はギターの修理もプロ並みだ」
こうして、ジョン・サーはかつて断られたルディーズに、「自分がクビにした男の紹介」で迎え入れられることになった。

「あのローストビーフ・サンドイッチがなければ、私は今の仕事をしていなかっただろう」

第3章:ニューヨークの伝説 —— Pensa-Suhrの栄光と苦悩


(1982年 ~ 1991年3月 / 24歳 ~ 32歳)
1982年~1984年:シェクター・デイズ
ルディーズに入ったジョンは、すぐに頭角を現した。当時ルディーズはシェクター(Schecter)の正規代理店だった。ジョンは修理の傍ら、カリフォルニアのヴァンナイズ工場から送られてくる高品質なシェクターのパーツを組み上げ、「R Custom」という名で販売した。
この時期、彼はシェクターの工場長だったトム・アンダーソン(Tom Anderson)**と出会い、意気投合する。二人は「品質」という共通言語で結ばれていた。


1985年(27歳):Pensa-Suhrの始動


シェクターがダラスへ売却され、体制が変わると、ルディとジョンは独自の道を歩み始める。ブランド名「Pensa-Suhr」の誕生である。
ジョンはフェンダーからの訴訟リスクを回避するため、ヘッドストックを削り込み(ビーク・ヘッド)、ボディサイズを少し小さくしたディンキー・スタイルを考案した。

【MK-1 製作秘話:1週間の奇跡】

1987年(29歳):マーク・ノップラーとMK-1の伝説
Pensa-Suhrの名を一躍世界に知らしめたのは、ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラー(Mark Knopfler)との出会いだった。

ジョンは元々、自分用のギターとして、初のバインディング付きカーブド・トップ・ギター(後のMK-1の原型)を製作していた。トップのアーチ加工も手作業で行っていた渾身の一本だった。
ある日、ルディがマーク・ノップラーを連れてきた。ランチの席で、彼らは紙ナプキンの上に新しいギターのアイデアを描いたが、ジョンは既に製作中の自分のギターをマークに見せた。
マークは一目でそれを気に入り、「これが欲しい」と言った。しかし、ネルソン・マンデラのバースデー・コンサートは1週間後に迫っていた。
ジョンは不眠不休で作業した。塗装には乾燥の早いポリエステルを使用したが、それでも時間が足りなかった。
「ケースの中で塗装がくっついてしまうのではないかと怖かった!」
こうして完成したMK-1は、世界中のギタリストの憧れとなった。


1988年~1990年:「美化されたキット製作」への苛立ち


ブランドは成功したが、ジョンの内心は荒んでいた。
トム・アンダーソンが自身のブランド(Tom Anderson Guitarworks)に専念するため、Pensa-Suhrへのパーツ供給(外周カットのみのブランク材)を停止したのだ。
ジョンは新たな供給元としてWarmothLa Si Do(Godinの親会社)を使わざるを得なくなった。しかし、送られてくるパーツは彼が求める精度ではなかった。


• マス・ヒノ(Mas Hino)の存在

 この時期、ジョンの助手として日本人ルシアー、マス・ヒノが働いていた。ジョンは彼を「最高の友人」と呼んだが、マスは電動工具が苦手だったため、主要な加工は全てジョン一人が行っていた。
ジョンは屋根裏部屋のような狭い工房で、ダイグラインダーを振り回し、マスクもろくにせず塗装を行い、他社製の精度の低いパーツを修正し続ける日々に疲れ果てていた。

「私はただの『美化されたキットビルダー』だ。プロセスをコントロールできないことに我慢がならない」

第4章:西海岸への逃避行 —— CAEと幻のSuhr Custom


(1991年3月 ~ 1995年 / 32歳 ~ 37歳)
1991年3月(32歳):決別
ジョンはついにルディーズを辞める決意をする。彼が求めたのは、電子回路の世界だった。LAのシステム・ビルダー、ボブ・ブラッドショー(Bob Bradshaw)と共同でアンプを開発するため、彼は住み慣れたニューヨークを離れ、太陽の降り注ぐカリフォルニアへ移住した。
ルディとは円満退社だったが、「Pensa-Suhr」というブランド名はルディのものだったため、ジョンは自分の名を冠したギターを作れなくなった。


1991年~1994年:電子の魔術師


ブラッドショーの工房(Custom Audio Electronics / CAE)で、ジョンは歴史的傑作「CAE 3+ Preamp」を完成させる。
「80年代のポップスに対応できる、煌びやかなクリーンと太いリードが必要だった」
このプリアンプは、スティーブ・ルカサーやエディ・ヴァン・ヘイレンに愛用された。さらに、後のSuhrアンプの基礎となるOD-100もこの時期に設計された。


【幻の40本:Suhr Custom】


アンプ開発の裏で、ジョンは個人的にギター製作を続けていた。ブラッドショーの工房の片隅で、完全に一から削り出したギター。これらは「Suhr Custom」と呼ばれ、世界に約40〜50本しか存在しない。これこそが、彼が「キットビルダー」から脱却し、真のルシアーとして覚醒した証だった。


第5章:巨象の中の異端児 —— フェンダー・カスタム・ショップ時代


(1995年 ~ 1997年 / 37歳 ~ 39歳)
1995年:J.W. Blackからの招待状
かつてニューヨークのサドウスキー(Sadowsky)で働き、良きライバルだったJ.W. Blackが、フェンダー・カスタム・ショップ(FCS)のマスタービルダーとして活躍していた。彼はジョンに電話をかけた。
「フェンダーに来ないか? ここには君の力が必要だ」
FCSのマネージャー、ジョン・ペイジ(John Page)もジョンを歓迎し、彼はシニア・マスタービルダーとして迎え入れられた。


1995年~1997年:伝統との戦い


フェンダーに入ったジョンは、単なる職人に留まらなかった。彼は製造プロセスの近代化を推し進めた。
• CNC革命: 当時のフェンダーのCNC加工はまだ発展途上だった。ジョンはより高精度なプログラミングと工程を導入し、品質の底上げを図った。
• ピックアップ解析: エリック・クラプトンの「Blackie」やヴィンテージ・ピックアップを科学的に解析し、そのデータを製品に反映させた。
しかし、大企業の論理は彼を苦しめた。
「30%の不良品を出しても経営が成り立つような環境は、私には合わない」
彼はセットネックの「Showmaster」などを開発したが、やはり「全ての工程を自分でコントロールしたい」という欲求は抑えきれなかった。


第6章:独立と盟友 —— JSTの設立とテリー・ロジャース


(1997年 ~ 2000年代初頭 / 39歳 ~ 40代前半)
1997年(39歳):Suhr Guitars (JST) 設立
ジョンはフェンダーを退社し、自身の城JST (JS Technologies Inc.) を設立する。
この時、彼がフェンダーから引き抜いた(あるいは共に夢を追った)盟友が、スティーブ・スミス (Steve Smith) である。スミスは天才的なCNCプログラマーであり、彼がいなければ現代Suhrの「髪の毛一本分の狂いもない」精度は実現しなかった。


1998年~:テリー・ロジャースと「裏メニュー」の伝説


設立間もないSuhrを支えたのは、テネシー州のハイエンドギター・ディーラー、テリー・ロジャース(Terry Rogers)だった。彼はジョンの技術に惚れ込み、Suhrのカタログにはない特別なカスタムモデルを次々と発注した。


【MallieとLiSAの真実】


これまで多くの謎に包まれていたモデル、「Mallie(マリー)」と「LiSA(リサ)」。これらは単なるギターではなかった。

• Mallie: エディ・ヴァン・ヘイレンが使用していたPeavey Wolfgangをベースに、Suhrの技術で再構築したボルトオン・ギター。

• LiSA: ミュージックマンのAxis などをベースにしたモデル。

これらの高額なカスタムオーダー(当時日本円で80万〜100万円)が、JSTの初期の財政基盤を支えた。


第7章:革新と哲学 —— トーンウッド論争とSSC


(2000年代中期 ~ 2010年代 / 40代後半 ~ 50代)
2005年頃:ノイズレスへの挑戦
ジョンは、シングルコイルのハムノイズを消すことに執念を燃やした。当初はIlitch Electronicsの特許を使用したバックプレート方式を採用していたが、さらに進化させるため、独自のSSC II (Silent Single Coil System II) を開発。
ヘルムホルツ・コイルを使ってノイズを可視化し、トーンを一切損なわずにノイズだけを消し去る魔法のようなシステムを完成させた。


2010年代:トーンウッド論争への反撃


インターネット上で「Suhrは安価な木材を使っている」という批判(特にアフリカン・マホガニーやオクメ材の使用について)が起きた時、ジョンはTGP(Oso)で猛烈に反論した。

「名前だけで木材を判断するのはインチキ薬(Snake Oil)を買うようなものだ。私が使っているカヤ(アフリカン・マホガニー)は、ギブソンのヴィンテージ・バーストに使われていたものと同じ特性を持っている。重要なのは名前ではなく、個体の共鳴と構造だ」

彼は自身の耳と経験を絶対的に信じ、批判を技術とサウンドでねじ伏せた。


第8章:継承と未来 —— NAMM 2025とOso Guitar


(2020年代 ~ 2025年現在 / 60代前半 ~ 67歳)
2020年代:息子ケビンへの継承
ジョン・サーも還暦を過ぎ、後継者の育成が急務となった。息子のケビン・サー(Kevin Suhr)は、電気工学を学び、父とは違うアプローチで会社を支え始めた。
ケビンは「Discovery Delay」などのデジタルペダルや、アンプのデジタルインターフェースを開発。アナログの天才である父と、デジタルの才能を持つ息子。この融合が、Suhrを「懐古主義的なギターメーカー」から「最先端のシステム・メーカー」へと進化させた。


2025年1月(67歳):NAMM Showでの「Oso」発表


2025年のNAMM Show。ジョン・サーは元気な姿を見せた。彼は新しいシグネチャーモデル「Oso Guitar」を発表した。
かつて「Aura」として発表したシングルカット・モデル(レスポールへの敬意と挑戦)をさらに進化させ、人間工学(エルゴノミクス)を取り入れたハイブリッドなデザイン。
「Oso」とは、長年彼がTGPで使い続けてきたハンドルネーム(スペイン語で「熊」の意)であり、彼のネットコミュニティでの活動と、ユーザーとの対話の歴史を象徴する名前だった。
2025年現在:アレックス・ミュージックの男への赦し
ある日、成功したジョンのもとに、一本のベースの修理依頼が来た。持ち込んだのは、45年前、48丁目のアレックス・ミュージックでジョンのギターを台無しにしたあの職人だった。
男は落ちぶれ、かつての面影はなかった。ジョンは彼に気付いたが、男はジョンのことを覚えていなかった。
ジョンは黙って最高の仕事を施し、ベースを返した。
「俺のことを覚えているか?」
男は首を振った。
ジョンは心の中で彼に感謝した。

「彼のおかげで、私は『自分でする』ことを誓った。彼がいなければ、今の私はいない」

終章:サーの流儀


ジョン・サー。2025年現在、推定67歳。
彼は今もカリフォルニア州レイク・エルシノアの工場に立ち、木材を選び、アンプの基板をチェックしている。
Pensa-Suhr時代のギターがヴィンテージ市場で高騰する中、彼はこう語る。


「昔のギターに数百万円払うのか? 好きにすればいい。だが、今の私が作るギターは、あの頃より遥かに優れている。私が全ての工程をコントロールし、私が認めた木材とパーツしか使っていないからだ。歴史を買うな。音を買え。」


コックとして完璧なサンドイッチを求めた青年は、今、世界で最も完璧なギターを作るマスタールシアーとして、その生涯をかけた「コントロール」の旅を続けている。

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